2023年7月28日
細野祐二
1.人質司法の現状認識
まず、人質司法に関する現状認識から。この問題を考えるうえで、2010年-2011年というのは極めて重要な意味を持つ年と思います。この両年にかけて足利事件再審無罪と布川事件再審無罪が出て、さらに厚労省の村木さんに無罪判決が出て、その過程で大阪地検特捜部の前田検事によるフロッピーディスク改竄が発覚し、大阪地検特捜部証拠改竄事件となってしまったからです。これらの無罪判決の衝撃は大きく、日本社会は歴史上初めて、「どうも日本の刑事司法ではとんでもないことが起きているのではないか?」という疑惑を抱くようになりました。それ以前は、ほとんどの日本人は検察官と警察官の区別さえできず、検察官が警察と別に存在する理由もわかっていなかったはずです。(これは今でも分かっていない。)
2010年-2011年の足利事件、布川事件、厚労省村木事件の3連発の衝撃は大きく、これ以前は年間100件程度に過ぎなかった再審請求が、これ以降年間200-300件に急増しているというのです。何よりも、それ以前は人質司法がマスメディアに取り上げられることは例外的でしたが、足利事件、布川事件、厚労省村木事件の3連発以降、冤罪問題は普通にマスメディアに取り上げられるようになりました。「人質司法」という言葉はやっと社会的認知を受けたのです。
さて、このような中で、本年3月に袴田事件の再審開始が確定しました。この事件のおぞましさは、捜査当局が犯行に使われたとされる着衣5点を味噌樽に隠して決定的な物証を偽造したと裁判所に指摘されていることです。供述調書が検察官の作文だということはもはや社会的常識になりつつありますが、ほとんどの日本人は、それでも、「日本の捜査機関がまさか物証を偽造して犯人をでっちあげるようなことをするはずがない。」と信じていたのです。刑事司法に対する国民の最後の信頼の砦が崩れようするのを、私たちは、今まさに目撃しつつあるのかもしれません。
今秋にかけて袴田事件が再審無罪となっていきますが、その進行にあわせて袴田事件における刑事司法の実態が明らかとなっていきます。現行司法の実態解明の中で、日野町事件の再審開始決定に対する検察官の特別抗告も棄却されるものと思います。
日野町事件が特異なのは、素行不良者ではない普通の市民が、捜査当局により強盗殺人犯に仕立て上げられ、刑事司法で有罪が確定して本人は獄死したことです。これまた再審無罪の社会的衝撃は大きなものとなるように思います。そしてその先には飯塚事件の再審無罪があります。この事件では、国家は、無実の久間三千年の死刑を執行してしまっているのです。この現実に直面した時に、それでも日本社会が司法改革をためらうのか、日本の民主主義が試されます。
ところで、袴田事件の再審において検察官が有罪立証を行う方針となり、このことがわが国に大きな社会的衝撃を与えています。この結果、袴田氏の再審無罪確定はさらに遅延することとなりました。この期に及んでこんなことをやろうとする日本の検察組織には愕然とせざるを得ませんが、この結果、日本の検察は国民の支持を完全に失うこととなりました。国民の支持なき検察は社会的存在の意味がなく、特に日本の特捜検察は、その歴史的存在価値を既に失っているものと思います。
2.日本の優秀な司法制度と人質司法の関係
日本の刑事司法は人質司法で、権利保釈は当然のことのように認められず、密室での取り調べで自白を強要しては99.9%の異常高率で有罪判決を連発し続けているのですから、およそ民主主義国家における刑事司法の体をなしていないのですが、一方で、そうは言っても日本の刑事司法は優秀だとして国際的にも高い評価を受けているという現実があります。一体この落差をどのように理解すればいいのでしょうか?
日本の刑事司法の高評価は、圧倒的に高い犯罪認識率、検挙率、起訴有罪率に基づくものであり、その背景には、日本の治安の良さ、国としての物理的な清潔性、日本人の親切さ、社会の安全性、裁判における秩序性、刑務所の平穏性などがあります。何も刑事司法における捜査手法や取り調べあるいは公判における証拠評価や裁判官の心証形成が評価されているわけではありません。日本の刑事司法は優秀で国際的にも高い評価を受けているのかもしれませんが、それは日本人の民族としての治安維持に対する親和性がなせる技であり、決して日本の刑事司法が制度上あるいは運営上優れているわけではないのです。
もとより日本人は嘘を恥とする文化を強く持っており、たとえどのように追い詰められた状況においても嘘はいけないとするのが日本の価値観となっています。これに対して、異民族が多く暮らす欧米諸国家においては、生き残るためには嘘をつかざるを得ず、むしろ「追い詰められて嘘をつかないのは自己防衛を放棄した馬鹿のやること」とする社会常識が存在しています。日本には民族的体験としてこれがありません。
日本には単一民族、単一言語、単一価値観の日本人ばかりが1億人以上も住み着いて単一社会を形成しており、そこでは嘘が恥とされており、しかもその民族は国家権力に対して驚くほど従順なのです。こんな中で犯罪が起きようものなら、社会はたちどころに犯罪情報をお上に提供し、一方、犯人は、逃げようにも逃げきれるところなどこの日本にはどこにもありません。すなわち、日本では、いくら捜査当局あるいは司法が無能であっても、犯罪者は摘発され、一定の治安が維持される社会構造になっているのです。しかも日本人は国家権力にことのほか従順ときているのですから、いったん容疑者を逮捕さえしてしまえば、容疑者はやっていなくても進んで自白をするわけです。このような捜査当局圧倒的有利の社会構造の中で人質司法をやるのですから、そこでの起訴有罪率は99.9%などという凡そ人間離れしたものとなってしまいます。日本の捜査当局および検察がこれを日本の刑事司法の優秀性と誤認してもらっては困ります。
日本人は起訴有罪率99.9%の超安全国家という幻想の中で生活しているのですが、日本社会は、今まで、起訴有罪率99.9%のためにどれほどの社会資本が犠牲となっているのかを実感することがありませんでした。人質司法は起訴有罪率99.9%の社会コストですが、人質司法などと言われてもほとんどの日本人には無関係なことで、いくら人質司法の醜悪な被害を発信しても、これが社会的共感となり司法改革の機運となることはありませんでした。ところが飯塚事件は違います。今後、袴田事件再審無罪→日野町事件再審無罪→大崎事件再審無罪の流れの中で、飯塚事件が再審無罪となれば、さすがにこの事件の衝撃性は日本社会を揺るがさずにはおきません。
飯塚事件の脅威は、凶悪な2児凌辱殺人事件において、近所に住む人相と態度の悪い久間三千年を逮捕し、有罪とする直接証拠が何もない中で、状況証拠だけの情緒的強弁を駆使して、裁判官の予断にまみれた自由心証に基づき有罪判決を出し、その死刑を執行してしまったことにあります。確かに久間三千年はまことに疑わしいのですが、いくら疑わしくとも合理的な疑問を超える有罪証拠などないのですから、本件には無罪判決が出されるべきでした。
社会は凶悪事件におびえて早く犯人を捕まえろと警察を叱咤し、警察は久間三千年の性悪情報を垂れ流して、マスコミはそれをそのまま報道し、裁判官は久間三千年を有罪とする状況証拠だけで死刑判決を書き、法務大臣は死刑執行命令書に何のためらいもなく署名してこれを執行してしまいました。「疑わしきは罰せず」というのは、「こういうことをやると、とんでもないことになる。だから、決してやってはいけない」という人類の英知です。これを無視して、日本社会は久間三千年を死刑にしてそれを執行してしまいました。
こんなことをするものですから、案の上、事件から30年たった2021年になり、なんと真犯人の目撃証言(木村証言)が出てきてしまったではありませんか。この目撃証言の迫真性は本件有罪判決を根底から粉砕します。久間三千年を逮捕した警察官、起訴した検事、死刑判決を出し続けた裁判官、有罪報道を垂れ流してきた大手メディアの一人一人が、果てしない良心の呵責に悶え続けなければなりません。裁判所はこの再審請求をこっそり人知れず棄却したいところでしょうが、そうはさせません。こうなった以上、日本人の民族としての尊厳をかけて、死刑制度廃止も含む日本の刑事司法の全面見直しへと、歴史を進めていかなくてはなりません。
3.人質司法と経済事件
現在日本では、袴田事件→日野町事件→飯塚事件という再審無罪の大きな潮流が来ていますが、これらは全て殺人事件で、経済事件は一件も対象になっていません。お気づきかもしれませんが、日本の冤罪支援活動には殺人事件系と経済事件系があり、両者は基本的に交流がありません。殺人事件系は、支援の会が筵旗を建てて不当判決を声高に糾弾するというスタイルが多く、これを経済事件系は冷ややかに見て、両者はほとんど相互交流がないままにそれぞれ独自の活動を行っているのが現状です。
人質司法は、日産ゴーン事件が国際的に有名になった経緯もあり、主として経済事件系で論じられていますが、人質司法の問題は殺人事件においても何ら変わることがありません。ただし、経済事件における人質司法は、殺人事件のそれとは意味合いがだいぶ違います。
殺人事件の場合は、人質司法による被疑者の自白が死刑あるいは無期懲役判決となって冤罪化するものですから、事件は社会的大事件となって、日弁連の冤罪支援対象となったりもします。ここでの冤罪被害者は無期懲役あるいは死刑となるのですから、その被害は家族に対するものも含めて悲惨この上なく、これに対する社会の同情が冤罪支援活動の大きな起爆剤となっていきます。
経済事件においても、人質司法による自白が有罪判決となって冤罪化する構造は変わりませんが、こちらの場合は、有罪といっても刑期は短く、被疑者初犯でほとんど執行猶予となるため、なかなか社会の同情を引きません。冤罪事件を通常審で最高裁までまともに争うと最低でも3千万円を超える弁護士報酬がかかるはずのところ、殺人事件の被疑者はこんな弁護士報酬は支払えず現に支払っていませんが、経済事件の被疑者の多くはこれを支払っているのです。そんな中で経済事件の冤罪を訴えても、多くの国民は、「あれはお金持ちの人たちの事件だから…」として共感を示すことがありません。ここに経済事件の冤罪支援が社会性を持ちにくい最大の原因があるように思います。
このように、経済事件の冤罪被害は殺人事件の冤罪被害に比較して量刑優位構造を持ちますが、だからといって経済事件の冤罪被害が殺人事件の冤罪被害に劣後するわけではありません。ここで注意しなければならないのは、殺人事件の冤罪被害が冤罪被害者及びその家族といった形で個人に帰属するのに対して、経済事件の冤罪被害は、冤罪被害者個人よりは経済社会全体に大きく影響してしまうことです。
日本において、経済事件は、特捜検察によりほぼ独占的に取り扱われており、日本の起訴有罪率は99.9%なのですから、経済事件における特捜検察による被疑者の逮捕は起訴すなわち有罪ということになります。日本では、ここにきていくつかの再審無罪が出るようになりましたが、ハインリッヒの法則を持ち出すまでもなく、この裏側には膨大な数の冤罪が隠れているはずです。物証や目撃証言のある殺人事件ですらこれだけの冤罪があるのですから、そもそも物証のない経済事件は冤罪だらけと言っても過言ではありません。
特捜検察が経済事件に注力したこの20年間に摘発されて社会的に抹殺された経済人は、ホリエモンや村上ファンドなどベンチャー起業家や日産ゴーンのような外国人あるいは私のような黒い眼をした外国人ばかりで、重厚長大伝統企業のサラリーマン経営者はほとんどおりません。これらの冤罪被害者は、既成概念を破壊して新たな経済価値を創造する可能性の高い人ばかりですから、経済事件における人質司法の社会コストは、人質司法で失われた経済人材が一番大きいように思います。
もとより経済人は、民事不介入による自己責任の下でリスクをとってビジネスを行う訳で、そこでの経済行為に対して、「いつ何時、特捜検察が介入して、人質司法で関係者の自白を取って犯罪者に仕立てられるかもしれない」というのでは、恐ろしくてまともなビジネスが行えません。このような潜在的恐怖こそが現在の日本経済に対して国際社会が抱いている懸念なのではありませんか?
日産ゴーン事件の結果、世界は日本のビジネスに内在する人質司法の脅威を目の当たりにすることとなりました。円安と低金利の日本は、治安も良く良質の資本と労働力があふれる魅力的な市場として存在していますが、そのような日本市場に対して、外国人の間接投資は増えているものの直接投資は低調です。人権問題で揺れる香港から国際資本は逃避しましたが、その逃避先はシンガポールであっても東京ではありませんでした。シンガポールには不透明な人質司法などありません。東京は、特捜検察による人質司法がはびこっており、外国人ビジネスマンにとってはとてもまともなビジネス環境とは言い難いのです。停滞する日本経済の大きな原因の一つが、日本経済に内在する人質司法なのではありませんか?
今まで経済界は特捜検察による人質司法に「触らぬ神にたたりなし」とばかりに無関心を決め込んできましたが、その結果がこれだけの日本経済の地盤沈下となっているように思います。人質司法の脅威は、殺人事件では冤罪被害者個人に、経済事件では日本経済全体に大きく影響するのです。人質司法の脅威を、経団連を始めとする経済界が対応すべき時期に来ていると思慮する次第です。
以上